『方丈記』英訳
また前述のディキンズのすすめにより帰朝後、『方丈記』を共訳した。『皇立亜細亜協会(ロイヤル・アジアチック・ソサイエティー)雑誌』(1905年4月)に出す。従来日本人と英人との合作は必ず英人の名を先に載せるのを常としたが、小生の力が巨多なため、小生の名を前に出させ A Japanese Thoreau of the 12th Century, by クマグス・ミナカタおよび F.Victor.Dickins と掲げさせた。
それなのに、英人は根性が太い。後年、 グラスゴウのゴワン会社の万国名著文庫にこの『方丈記』を収め出版するに及び、誰がしたものかディキンズの名のみを残し、小生の名を削った。しかしながら、小生はかねて万一に備えるため、本文中のちょっと目につかない所に小生がこの訳の主要な作者であることを明記しておいたのを、やはりちょっとちょっと気づかずそのまま出したため、小生の原訳であることが少しも損ぜられずにある。
先年、遠州に『方丈記』の専門家がいた。その異本写本はもとより、いかなる断紙でも『方丈記』に関するものはみな集めていた。この人が小生に書を送って件の『亜細亜協会雑誌』に出ている『方丈記』は夏目漱石の訳と聞くが、やはり小生らの訳であるのかと問われる。よって小生とディキンズの訳であることを明答し、万国袖珍文庫の寸法から出版年記、出版会社の名を答えておいた。またこの人の手により出たのであろうか、『日本及日本人』に漱石の伝記を書いて、漱石が訳した『方丈記』はロンドンの『亜細亜協会雑誌』に出た、とあった。大正11年1月小生上京中、政教社の三田村鳶魚氏が来訪されたおり、現物を見せて誤まりを正した。大毎社へ聞き合わせたところ、漱石の訳本は未刊で、氏が死するとき筐底に留めてあった、と。小生は決して漱石氏が生前にこのような法螺を吹いたとは思わないけれども、我が邦人が今少し海外における邦人の動作に注意されたいことである。
ついでに申すと、むかし寛永中、台湾のオランダ人が日本の商船の荷物をかすめとって、はなはだ不都合な行為をなしたことがある。長崎の浜田弥兵衛がその商船の持ち主末次茂房に頼まれて行き、オランダ人を生け捕って帰り、大功名をなしたことがある。平田篤胤の『伊吹おろし』その他日本の書にはただただ浜田氏が勇猛でこの成功があったように称揚しているけれども、じつは当時この風聞はペルシア辺まで聞こえ、仏人が当時ペルシアでこの話を聞いて賞賛して長文を書き留めたのを見ると、浜田氏のそのときの挙動処置のいちいちに条理があり、じつにどこの国の人も難の打ちどころない見事なやり方であったと見える。今日の米人なども無茶な人ばかりのようだけれども、じつは道理の前には心を空しくして帰服する美風がある。これに対する者は、例の日本男児など独讃的な自慢でなく、どこの国にでも通じるような公然とした道理を述べ、筋道を立てられたいことである。